式内 甘樫坐神社
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概 要
社 号 甘樫坐神社
読み:古 アマカシ-、現 あまかしにますじんじゃ
式内社 大和国高市郡 甘樫坐神社 四座 (並大。月次相嘗新嘗)
所在地 奈良県高市郡明日香村豊浦626
旧地名 大和国高市郡
御祭神 推古天皇
相殿 左右の相殿に三柱ずつが祀られている形
『和州旧跡幽考』推古天皇
寛永8年(1631)の棟札に六所大明神
宝暦8年(1758)の棟札に推古天皇を主神として八幡宮 春日大明神 天照皇大神 八咫鳥神 住吉大明神 熊野権現を並記
『五郡神社記』八十禍津日命 大禍津日命 神直毘命 大直毘命
本来は八十禍津日命 大禍津日命 神直毘命 大直毘命を祭神であろう。
祭礼 9月18日 例祭
社格等
『延喜式神名帳』(式内社)
畿内:658座(大231座・小427座)
大和国:286座
大128座(並月次新嘗・就中31座預相嘗祭)・小158座(並官幣)
高市郡(タケチ):54座(大33座・小21座)
近代社格制度 旧村社
創建 不詳
本殿様式 春日造桧皮葺亜鉛張
境内摂末社(祭神)
ナシ
一口メモ
県道214号線の甘粕の丘の麓の狭い旧道を本当にここだろうかと探しながら入って、見つけたときは子供の頃の宝探しの遊びを思いだした。それほど小社であった。隣の向原寺境内にに豊浦宮跡があるらしい。
歴史・由緒等
飛鳥川の左岸丘陵の北端近く、東麓に東面して所在し、豊浦の向原寺の南側を西に少し入つた所に鎮座する。東方約500mを距てた丘陵は、史蹟甘樫丘であり、展望台がある。
隣の向原寺境内にに豊浦宮跡がある。
古くは甘樫神と称し(三代実録)中世では湯起請の神(五郡神社記)とも呼んでいる。
境内に自然石の立石がある。それは高さ約3m、幅約1.5m、厚さ約1mの片麻岩で、社殿の北側に東面して立つている。
これは飛鳥地方に見られる石造遺物の一種で祭祀遺跡あるいは結界石かとも思われるが、特別な傳承はない。
当社の特殊行事として、クガダチの神事がある。これは例祭日に行なわれるが、戦後になつて古代の盟神探湯の儀が復興された。
盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)
「盟神探湯」 Kugatati, Trial in Ancient Times
盟神探湯は裁判の一種として考えられ、煮え湯の入った釜に手を入れ「正しき者にはヤケドなし、偽りし者はヤケドあり」という極めて荒い裁判の方法です。「日本書紀」によれば允恭天皇4年(415)氏姓制度の混乱を正すため、甘橿の神の前に諸氏を会して盟神探湯を行ったと伝えています。
現在では毎年4月、境内にある「立石」の前に釜を据え、嘘・偽りを正し、爽やかに暮らしたいという願いを込め、豊浦・雷大字が氏子となって「盟神探湯神事」としてその形を保存・継承しています。
「立石」と呼ばれる謎の石はこの豊浦のほかに、村内の岡・上尾・立部・小原などにも残っています。「社頭掲示板」
日本書紀の記録
応神天皇9年4月条に、武内宿禰が弟の甘見内宿禰の讒言を受けて殺されそうになり、武内宿禰が潔白を主張したので、天皇は2人に礒城川で盟神探湯をさせたとの記事がある。允恭天皇4年9月条には、上下の秩序が乱れて、むかしの姓(かばね)を失ったり、わざと高い氏(うじ)を名乗る者も出てきた。それを正すために甘樫丘で盟神探湯を行ったという記事がある。各自が沐浴斎戒し、木綿の襷をつけて探湯を行い、正しく姓を名乗っている者は何ともなく、詐りの姓を名乗っている者は皆火傷をしたので、後に続く者の中で詐っている者は恐れて先に進めなかったので、正邪がすぐにわかったとある。この条の註記には、「泥を釜に入れて煮沸し、手を入れて泥を探る」という具体的な手順が書かれている。
継体天皇24年9月条には、倭国から任那に派遣された近江臣毛野の下に任那人と倭人の間に子供の帰属を巡る争いが発生した際、裁定が出来なかった毛野が「誓湯」すなわち盟神探湯によって判断を下そうとしたところ、火傷を負って死ぬ者が多かったとされる。この話は近江臣毛野の失政と暴虐ぶりを示す話とされている。(ウィキペディア)
境内・社叢
拝殿 拝殿から本殿
本殿 「立石」
地名・地誌
豊浦宮跡・豊浦寺跡(現 向原寺)
日本最初の女帝である推古天皇は592年に即位するが、崇峻天皇暗殺から間もない時であったため、新たに大規模な宮殿を築かなかったとする考えがあり、それが蘇我氏の邸宅の一部を転用した豊浦宮と考えられている。飛鳥時代の幕開けである。その後、宮は豊浦寺となるが、発掘調査の結果、金堂・講堂など伽藍配置の一部が明らかとなっている。また、出土した瓦からは飛鳥寺との関係が深いことや、遠隔地からも供給されていたことなどが判明した。
甘樫丘(アマカシノオカ)
頂上からは飛鳥一円が眺望できる標高145mの小高い丘である。この丘の中腹と麓に、蘇我蝦夷・入鹿親子の邸があったと言われているが、大化改新によって入鹿が中大兄皇子に倒された直後、蝦夷はその邸に火をかけて自害したといわれている。『多武峯縁起絵巻』などにも炎上する蘇我邸が描かれているが、甘樫丘の東麓にあたる場所(甘樫丘東麓遺跡)が発掘された結果、焼けた建築部材・土器などが出土した。この位置が大化の改新の際中大兄皇子が陣取ったとされる飛鳥寺と対峙することや、土器の年代観が、この時期に一致することなどから、調査地の上方に蘇我邸が存在していたであろうことが想定されている。
「公益財団法人 古都飛鳥保存財団」より
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「延喜式神社の調査」さん、他
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